50歳を過ぎた頃から次第に自分の人生の終末を気にするようになる。
そしてまた,来し方を振り返り,さて自分の人生はこれで良かったのだろうかなどと考える。そしてたいていは結論が出ず,ため息ばかりが出るといったことになりやすい。
私もそれを繰り返してきた。
そして還暦を過ぎてからはその頻度が高くなったような気がする。
そんなある日,曽野綾子さんの本に出合った。「引退しない人生」(PHP文庫)というエッセイ集である。それまで曽野さんが書いてきたエッセイの中から,50歳代以降の人生を豊かに生きるためのヒントとなるようなものをまとめたもので,いろいろと心に響くものがあった。
その中で衝撃的だったのは,「あなたが人を殺すことなく人生を歩んできたのなら,それだけで人生の半分は成功だったと考えるべきです」という趣旨のことを書いていた部分である。
(何を言いだすんだ曽野さんは。人殺しなどそうそうするもんじゃない。極端なモノ言いに過ぎるんではないか)
と,私は反発を覚えた。
そりゃそうだろう。この日本で人を殺した人が何人いるというのか。そんなことを言っていたら一億総「成功」になってしまうではないか。いかにも理不尽だ。
しかし,先を読み進めてみるとだんだん反発の気持ちが弱くなっていった。
曽野さんは世界中を歩いているので,いろんな国のいろんな人と逢っている。そうすると地球儀的な視点で人の人生を考えられるようになる。視野が違うのだ。
そのような視野で「人殺し」を考えると,世界中で実に多くの人が経験しているというのである。
そう,戦争である。
確かに全世界的な視点でこの半世紀を振り返ってみれば,ほとんどの国が戦争をし,殺し合いをしてきた。その結果,好まざるといえども人を殺す人がたくさん出てきてしまう。
たまたま日本は戦争放棄という憲法があるから,この種の人殺しをせずに済んできただけである。そして,これは世界の中では相当に稀なことだ。
唯一の例外といってもいいのかもしれない。
いくら大義のある戦争とはいっても,生身の人間が生身の人間を殺すというのは心身に重い傷をもたらす。できれば避けたいところだが,その国に住み続けようとする限りは避けられない。そうして人を殺し,それにさいなまれる人生を送ることになる。さすがにこれはしんどいだろうと思う。人殺しをせずに人生を終える。確かにそれは有り難いことと言うべきであろう。
そんな視点で日本を俯瞰してみるともう一つ見えてくるものがある。
人は腹がすけば何はともかく食べ物を探し,喉が渇けば一心不乱に水を求める。そしてそれが満たされたとき,原始的で短時間ではあるものの,間違いなく幸せな気分になれる。人間はそうできている。
この切り口から日本の半世紀を振り返ると,「戦後が終わった」あたりから食べ物に困るようなことはなくなり,次第に飽食の時代とまで言われるようになった。そのような時代に生きてきた我々は,それだけでもまた「成功」といえる人生を歩んできたと言えるのではあるまいか。
このような視点から見た場合,我々の大半は人生の半分以上「成功」だったと言うべきである。半分以上成功ということは,つまり合格点をもらえる人生であったということである。
「さて自分の人生はどうだったか……」などとため息なんかつく必要はない。
むしろ,ほほ笑んでもいいくらいだ。曽野さんのエッセイを読んでからはそんなふうに思えるようになって,ずいぶんと楽になった。